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小西利兵衛(こにしりへい)(1807〜1881

政年間(ぶんせいねんかん=江戸時代)仙台城下の河原町(かわらまち)で商店(荒物屋=あらものや)をいとなんでいた七代目で、自分の店であつかっていた商品の1つ1つにくふうかいりょうして、それを新しく作る方法をつぎつぎとうみだしました。
その当時は、雨傘(あまがさ)は提灯(ちょうちん=竹でほねぐみを作りそれに紙をはったあかり、中にろうそくをともします。)とともに武士たちの内職としてつくられていましたが、雨傘(あまがさ)に使うよい紙がなかったので、柳生の紙すきの人びとに水に強い雨傘用の紙を改良(かいりょう)させ、その紙をはる「のり」は、近くの加美郡(かみのぐん)という所の人びとにつくらせ、傘(かさ)のもつ部分にあたっては、遠く江戸から職人(しょくにん)にきてもらい指導(しどう)してもらいました。

また、天保年間(てんぽうねんかん=江戸時代)には、もっと質のよい紙を作ろうと信州(しんしゅう=現在の長野)から元結(もとゆい=紙の種類)の紙すき職人(しょくにん)をまねいて紙すきの技術向上(ぎじゅつこうじょう)をすすめ、さらに提灯(ちょうちん)に使用する染美濃紙(そめみのし)の製造(せいぞう)にも成功(せいこう)しました。

時、柳生村には90戸前後の紙すきの家がありました。そのうちの紙すきにかかわる半数以上の人々が頌徳碑(しょうとくひ)をつくるにあたりお金をだし、協力したことは、いかに小西利兵衛(こにしりへい)という人が柳生和紙の紙すきにたいしてあつい情熱をもってとり組み、柳生和紙の技術向上(ぎじゅつこうじょう)と普及(ふきゅう=広くいきわたること)につとめたかがうかがえます。柳生紙の恩人(おんじん=ひじょうにお世話になった人)といえる方でしょう

柳生和紙をささえてきた水の流れ・・・

●小西利兵衛(中田の歴史写真資料集より